昔ばんぎゃるだった何かの日記

ばんぎゃるがいろいろ考えたりいろんなものを観たりするよ。

ありがとう、グランギニョル。

(TRUMPシリーズ全作品について、めちゃくちゃネタバレします。)

 

本命バンドのツアーが終わったときの気持ちに、とてもよく似た「寂しい」を感じながらこの文章を打っている。

この舞台を観られた事への感謝とか、そもそも、めいめいと東啓介さんが気になって劇場に足を運んだら、三浦涼介さんというすごい人がそこにいた事とか、3回観た公演全部友達が一緒で嬉しかった事とか、大阪楽しかった事とか、ぐちゃぐちゃになって、今パソコンに向かっている。

 

大好きになってしまったものの、大好きなところを残しておきたいので、書きます。

 

前回の感想でも、「グランギニョルは分かりやすく愛のお話」って書いたけど、やっぱりそうだと思った。

観れば観るほどフリーダ様が大好きになっていく。

スーがフリーダ様に「フリーダ様は幸せですか?」って問うシーン、「幸せであろうと努力しているわ」って応えるところ、本当に大好き。

フリーダ様は、誰しもが運命に縛られている中で、その中で最大限に幸福であろうと努力してるように見えた。運命を悲観するんじゃなくて、その中で精いっぱい、デリコ家の妻として、ラファエロの母として、一人の女性として、生きようとする。

フリーダ様が掲げていた「共存主義」は、 運命に対する反逆だったんじゃないかな。

「夫婦が同じ思想を持っていなくてはならないわけではありません」って、フリーダ様がジャック・ブレアに言っていたけど、それは「ダリの妻」ではなくて「自分」としてフリーダ様が生きていた証なのかなって思う。

赤ん坊のウルに、マルコが「この世に生まれてきた苦しみから泣いている」っていうところ、シェイクスピアリア王を原典にしてるってこないだ書いたけど、同じリア王にこういうセリフがある。

「やっとわかったぞ。これからは苦難に耐え抜いていこう、苦難の方から降参降参と悲鳴をあげて消えてしまうまで。」

(I do remember now. Henceforth I’ll bear Affliction till it do cry out itself.)(研究社/リア王4.6/大場建治)

フリーダ様も、こんな気持ちだったんじゃないかな…。

代えがたい運命、「呪い」の中にあって、それでも家族と、愛する人と、自分の矜持を守ろうとしたんじゃないかな。

 

フリーダ様の最期、ダリに対して「私もあなたを愛しています」って言うのね。

ダリは劇中、一度もフリーダ様に愛してるって言わないの。

それでも、ちゃんとダリのフリーダ様を「愛している」っていう気持ちが、ラファエロのことも愛しているっていう気持ちが伝わっていて、ダリがスーの赤ちゃんの事も「愛してあげられる人」だってフリーダ様は分かっていたから、事切れる最期にああいうセリフを言ったのかなって思う。

ダリの愛を、きちんと受け取ってくれる貴重な人だったと思うんだ。フリーダ様。

だって、TRUMPで、二人の息子に父の愛あんまり伝わってないように見えちゃって悲しかったから、フリーダ様が生きていてくれたらいいのにって、すごく思った。

 

ダリが最後、ウルを噛んで「負けるな」って呪いをかける。

あれは、ウルに対してもだけど、ダリ本人に対しても、言い聞かせるじゃないけど、そういう気持ちがあったのかなって、大阪で見たときに思った。

グランギニョルで妻を失い、TRUMPで二人の息子を失う。そういう意味で、ダリ=デリコを主演とした残酷劇は、ある意味で完成してしまうんだなって思ったりもした。

ただ、ダリが生きている限り、それは終わりじゃないような気がしたりもする。

 

「負けるな」の呪いは、私たち観客一人ひとりに対してもかけられたものだと思う。

グランギニョルの構成で、すごく好きだなと思うところ、劇中の耽美な残酷劇に流れる「呪いの中で生きていく」っていうモチーフが、客席の私たちの「生き方」にも投げかけられるところなんだよね。

私たち一人ひとりもやっぱり、日々呪いの中で生きていて、その中でいかに幸せに生きようとするかっていうのを、問いかけられていると思った。

 

好きなところを飛び飛びで書いてるから、全然まとまりがないんだけど、めいめいのキキもすごく良かった。

キキのシーンで私が一番好きなのは、オズと別れるところ。

BGMが、LILIUMの「もう泣かないと決めた」なんですよね。マリーゴールドがLILIUMで歌っていた歌。

その前の繭期3人組で話すところ、キキが「私は泣かないって決めたの」って言う。でも、そのあとオズと別れるときに泣きながら上手にはけていくんですよね。

キキはきっと、これから先泣かないんだろうな…オズと別れる涙が最後の涙なんだろうな…と思いながら見ていました。

上手にはけるっていうのも、意味があるのかなって思っていて、富野由悠季の「映像の原則」で、上手にはポジティブな意味合いがあるっていうのを読んで、このBGMとキキの涙は、キキの希望への決意なのかなって思ったりしました。

この「映像の原則」の上手下手理論が、グランギニョルでどれだけ適応されるものなのかはわからないので、考えすぎなのかもしれないけど。。

キキが最後に姿をくらますときは下手に消えるので、そこに意味があるとしたら悲しいなとも思いました。

この辺は、DVDを観てまた考えたいです。

 

もうとにかく、私がどれだけフリーダ様が好きで、フリーダ様に生きてほしいと思ったかが伝わったらうれしい。

 

生まれて初めて、人がよく死んでしまう作品において、二次創作で転生系現代パロディとか、全員生存エンドパロディとかが流行る意味が分かってしまっている。

そのくらい、フリーダ様がいなくなってしまったのが悲しい。

 

あ、あと、三浦涼介さんのファンクラブに入りました。

 

グランギニョル、DVDが最寄りのアニメイトに届くのが楽しみです。

最高の独り相撲を取ろう!~ガチ恋について思い出す事、思う事~

最近、またガチ恋についていろいろ考えるタイミングがある(会社休職してて暇なんだ)ので、ここで私の思うガチ恋と私がしてきたガチ恋について、一度書いておきたい。

パソコンのスペースキーが壊れていて、段落分けを知らない人みたいになってるけど、単にスペースが入れられないだけです。 

 

私のツイッターを初めの頃から見てくれている方はご存知かと思うんだけど、私は某バンドの某さんという人(この世のバンドマンの中で一番かっこいい。)がどうしようもなく好きだった。

今も好きだけど、今から5~6年前は本当にひどくて、出会った衝撃で頭のねじが数本無くなってしまったんじゃないかっていうくらい、某さんの事しか考えず生きてた。

朝起きるとケータイの待ち受けの某さんの顔を見て、ROUGHthe某っていう動画番組を配信してたんだけど、それを見ながら朝の支度をし、某バンドを聴きながら電車に揺られ会社へ行き、嫌な仕事を某さんの事を考え乗り切り、また某バンドを聴きながら帰宅し、お風呂でまた動画番組を見て、就寝するっていうのを、本当に冗談じゃなく毎日繰り返していた。

休みは某バンドのライブの為に取り、その頃の私の仕事はシフト制だったので、ツアーに合わせて休みを入れて、仕事→夜行バスで大阪→ライブ→夜行バスで東京→仕事みたいな日々にマジで生甲斐を感じていた。本当に某バンドと某さんに生かされていた。

 

インストアイベントにも、もちろん行った。

話が少しずれるが、私は、小学校の頃からビジュアル系が大好きで、中学生になって積極的にCDを買ったり、ちょっとづつライブに行ったりするようになった。

思春期当時、ムックというビジュアル系バンドに、こちらも気が狂ったように夢中になっていた。

その頃、買ったCDのおまけについてきたコメント映像の中で、当時私が世界で一番かっこいいバンドマンだと思っていたミヤくん(ギター:この頃の世界では一番かっこよかった)が、ファンに対して「いつもタバコを2カートンくれるお客さんがいるんですけど…ありがとう」みたいな事を言っていたのだ。

少女だった私の衝撃はすごかった。天上の人だと思っていたバンドマンから、ありがとうっていう言葉をもらえるんだ…というか、たばこを毎回カートンで差し入れするってめちゃくちゃかっこいい!!私もやってみたい!

しかし、親からアルバイトを禁止されていた高校生の私にそんなことができるわけもなく、受験の忙しさの中で、そんな事は忘れていった。

高校を卒業して、ビジュアル系からしばらく距離を置いていたが、突然彗星のように表れた某バンドにめちゃくちゃハマってしまった成人女性の私は、ふと思い立つ。

「今こそ、あれを実行する時じゃないのか!!?」

もう私は社会人!今こそ自由になるお金で、あの頃の夢をかなえよう!!

そこからは、できる限りタバコを差し入れるようになった。

今から思えば、某さんが喜んでくれたら良いなみたいな気持ちがあったような気もするが、当時の私は、素晴らしいライブと曲とパフォーマンスで、私を元気づけてくれる某さんへのお礼のような気持ち半分、あの頃憧れたミヤマニのお姉さんに、自分もなれているんじゃないかという謎の自己陶酔半分で、それを続けていた。

インストアイベントだと、結構な割合でプレゼントを手渡しできる。

自分の渡したプレゼントを、バンドマンが「ありがとう」と受け取ってくれるのだ。

ぶっちゃけ、めちゃくちゃ幸せだった。

アップされるブログの写真にさりげなくタバコが写りこんでいたら、「これは私があげたやつだろうか…?」って考えたりする。本当に充実していた。

その節は、ありがとうございました。

 

そこから、お洋服のプレゼントもあげた。洋服をあげたのは、結局2回くらいだった気がする。えらぶ時、某さんの好きなブランドはかぶると思ったので、避けるようにした。

自分でショップに見に行って、これは某さんに似合う!っていう服を見つけたときの高揚感は、今も忘れることができない。

店員さんに「これは世界に6着しかない服なんですよ」とか言われて、『これは絶対某さんに似合うから、6着全部某さんに集まってしまったらどうしよう…』とか真剣に悩んだりした。めちゃくちゃ楽しかった。

お洋服のプレゼントって、あげてからもすごくて、着てくれるのだ。

最初は、「センスの良い布くらいに思って、窓の結露でも拭いてくれたらいいな…」なんて、その服のブランドのデザイナーにぶっ殺されそうな事を思ってプレゼントしていたが、着てくれるなんてことがあるのか!?ってすごく感動したし、初めて着てくれてるところを見たときは「やっぱり手元に6着集まってて今日着てるやつは私があげたやつじゃないかも…」なんていうバカみたいなことを考えていた。

その節は、ありがとうございました。

 

でも、そこから、私の中で歯止めが利かなくなってしまった。

もともと、思い込みの激しい性格っていうのもあったと思うし、正義感が強すぎて、曲がったことをしている人が許せない気質だった。

だから、徹底して自分の思う「良いファン」になろうとしてしまったのだ。

別に、誰から頼まれたわけでもないのに。

自分で勝手に、某さんから「良いファン」と思われたいと、思い込んでしまった。

 

良いファンだと思われることで、自分の自尊心を満たしたかったんだと思う。

 

 

何が良いファンかなんて、そのバンドマンにしかわからない。

私が良いファンだと思って取った行動が、正しいかどうかなんて、誰にもわからないのだ。

答えのない迷路に迷い込んだみたいな気持ちだった。

ステージの下、ライブハウスのフロアでは、いろんなことがある。

みんなそれぞれの常識があって、それに則って行動をしている。

勿論、私が間違っていることもたくさんあったと思う。

でも、その頃の私は、自分を「正しい者」にしようと必死になっていた。

だから、自分の考えと違う常識を持った人が、不愉快でたまらなかった。

そういう空間に身を置き続けるっていうのは、すごくつらい。

また、板の上の人達には、そんなことは微塵も関係ないのだ。

どんな人でも、お金を払って、自分たちの演奏を聴きに来てくれていれば、自分たちを好きでいてくれれば、お客さんだ。

今はわかる。でも、当時の「自分を正しいと信じた暴走機関車」みたいになってしまった私には、それもつらかった。

(そんな風になっていた私自身こそが、バンドにとってみたら迷惑な客だったのかもしれないのにね。)

 

この気持ちがやがて膨らんで、私はバンド自体を見ていることができなくなってしまった。

 

よく、ツイッターで私は自分のガチ恋の事を「私の与えた理想の形に収まって、私の心の中に用意した椅子に座っていてほしかった」って表現するけど、それはこういうことだ。

「結婚したい」って思うよりも、「彼女になりたい」って思うよりも、最悪なガチ恋の形だと思う。自分勝手で、相手の事を何も考えていない。

 

某さんへの熱が沈静化した後、私には何が残ったんだろうかって考えた。

そこで振り返った時、私の中で某さんを好きになる前にできなくて、好きになった後にできるようになっていた事がたくさんあるって気づいたんだよね。

 

まず、某さんを好きでいるうちに、私はなんだかんだ仕事を続け、昇進していた。

某さんを好きになった時から比べかなりかなり収入も増えた。

任される仕事の範囲も広くなって、部下も後輩も、沢山できた。

 

そこに気づいて、今まで某さんと某バンドが好きなだけでここまでやってきたけど、全部自分の為になってたんだなって、本当に実感した。

これまでしてきたガチ恋も、全部自分の為だったんだなって。

後から振り返ってみると、全部私の独り相撲なんだけど、結果として見てみて、本当にそれで良かったと思う。

最高の独り相撲だった。

やってる最中はめちゃくちゃつらくて、嫌な思いをさせてしまった人もいるかもしれないなと思うんだけど、本当にそれはごめんね☆という事で、一旦おいておきたい。

 

何が言いたいのかというと、バンドマンを好きでいるっていう事は、全部自分のためだっていうこと。

バンドマンにプレゼントをあげても、どれだけたくさん公演に通っても、どれだけたくさんCDを買っても、それは全部自分のため。世界中のガチ恋は、だいたい独り相撲なのではないだろうか。

 

私の人生は私のものだし、どれだけ何をしても、板の上の人の人生はその人のものなのだ。

 

だからこそ、自分が満足いくまでやればいいじゃん!!って私は思うし、後悔しないようにやりたい事は躊躇しないほうがいいよって思う。

ただ一つ、その恋が終わるときに、相手の人や、業界や、他のファンや、相手の人の大切な人の事は、絶対に公の場で罵らないほうが良いし、恨みつらみはだれも見てないところで吐き出そうって、それはすごく思います。。

 

取ってるときは独り相撲って気づかなくても、終わってみたら最高の独り相撲だったなって思えるようなガチ恋を、できるといいよね!!

板の上の人を追いかける女たちは、かわいいしおもしろい!

 

貴方のガチ恋がもし終わってしまったら、バーミヤンで飲もうぜ!っていうのを文末に添えて、とりとめもない一人語りを終わります。

 

もし最後まで読んでくれた人がいたら、有難う。

グランギニョル初見の感想(ぐちゃぐちゃ)

 

5日のマチネ終わり、得体のしれないギラギラしたものが体中にあふれて、でも言葉にできず「すごいものを見てしまった」という、本当に誰にでも言えるような感想しか出てこなかったので、勢いのままに書いてまとめておく。

 

まず、『グランギニョル』はめちゃくちゃわかりやすく愛の物語だった。

友愛というテーマは、TRUMPにも、LILIUMにもあったと思うけれど、グランギニョルには、それに加え3つの夫婦愛が分かりやすく描かれていた。

ダリとフリーダ、ゲルハルトとマリア、スーとウル。

この3組の夫婦愛が、対比して描かれていたと思う。

どこから書いていいかわからないくらい、登場人物全員魅力的だったんだけど、フリーダの愛が本当に深く、美しくて、よかった。

スーがダリの不義の子を身ごもっているんじゃないかと疑念を持ちながら、でもダリを信じるデリコ家の妻として、吸血鬼と人間の共生を望む一人の女性として、ラファエロの母として、3つのどの立場にあっても、対する人を愛そうとする姿勢がめちゃくちゃ響いた。

「家の者がつらく当たってごめんなさいね」のやさしい声と、「このキレイな顔でダリをたぶらかしたのかしら」の冷たいけど寂しそうな声と、そう言ったあと「あなたの血を吸ったりなんかしないわ」って自分でその寂しさ、恐ろしさを冗談にしてしまうような弱いところと、めちゃくちゃ良い女だよ…って思ったらそこでもう涙腺が死んでしまった。

その時点で、フリーダにちょう感情移入してたので、ダリに対して「おまえ!子どもの寝顔見に行ってる場合か!一回フリーダを抱きしめてやれ!!ばか!」っていう気持ちになってしまい、序盤ちょっとだけダリが嫌いになりました。

 

フリーダはとても理性的で矜持ある女性だなって思って、たぶんそこは、ゲルハルトの妻マリアとの対比になっているのかなって思った。

 

自分で子孫を残せないゲルハルトの命で、部下の男と姦淫し、その子を身ごもって狂ってしまう。この真相が出た時が一番つらかった。

ゲルハルトがマリアを守るって言うのが、ほんとうに切実で、ゲルハルトにとって「守る」っていうのは、フラ家を存続させることで、その根幹が揺らがなければ、絶対にすべて、マリアもアンジェリコも守る事が出来るって思ったのかなっていうのが、本当に見ていて悲しい。

ゲルハルトが原初信仰者だったのって、自分がTRUMPになって永遠の命を得られたら、自分だけでフラ家を守れるって思ったからじゃないのかな。

お父さんのつらい教育に耐えて、同じことを自分の子に強いなくても、マリアが子どもを産まなくても、自分が子種を宿せなくても、フラ家を守って、家族を守れるって思った。だから、原初信仰に惹かれたのかなって考えたら、もう耐えられないくらいつらくなってしまったよ。

ラファエロとアンジェリコ、両方とも聖母子画を描いた画家の名前っていうのが面白いと思った。母と子の関係としても、フリーダとラファエロ、マリアとアンジェリコは対局にあるなぁって。関係あるかは不明だけど。

あと、これは余談だけど、ダリ・ゲルハルト・フリーダって、全員画家の名前だよね。

 あと、ウルが泣いているのを見て、マルコが「この世に生まれてきた苦しみから泣いてる」的な事をいうシーンがあって、これ、わたしが16歳のときに下妻物語の桃子の語りでめちゃくちゃ共感したところと似た事言ってたんですけど、何か元ネタあるのかな。

すごい好きな考え方だから、元ネタあるなら知りたい。

 

だいすきだから一説引用する。

「この世に胎内から放りだされた時、赤ん坊が泣いているのは、何でこんなに出鱈目な世界に生み落としたんだよー、という怒りのせいです。やがて大いなる絶望をかかえて生きる宿命を与えられた赤ん坊は、こんな理不尽な世界で生きていけというのなら、こちらにも考えがあるさ、生きることの不毛さに、みっともないから恨み言は今更言わないが、安穏に生きるというルールは無視させてもらいます。好き勝手にやらせてもらいますよ、と思うのです。そのように覚悟を決めたとき、きっと初めて赤ん坊は笑うのです。」

下妻物語/嶽本野ばら/小学館

さいこう。

…元ネタ、シェイクスピアリア王でした!

友達ありがとう!!

 

あと、これは友達が言ってたんだけど、マルコがどこから完全にダミアン・ストーンになるのかっていうところ、とてもきになる。次回みるときそこはちゃんと注目してみる。

 

終わり方もとても良くて、希望にも絶望にも繋がる終り方だった。

ダリがウルを噛んで、負けるなっていう呪いをかける。

私はシリーズを全編見てから今回のグランギニョルに臨んだんだけど、それでもこの終わりは希望だと思った。

今までのシリーズに出てくる人たち、みんな最後まで「友愛」を失わずに死んでいくんですよね。TRUMPのウルはソフィに対して、LILIUMのスノウはリリーに対して、(SPECTERはもう一回見ます)ダリに負けるなって呪いをかけられたウルは、ダミアンにかけられた死の恐怖におびえる呪いに侵されながら、TRUMPで最後に友愛の言葉をソフィにかけて死ぬんだなと思って。

残される側にとってはたまったもんじゃないかもしれないけど、ウルは最後、死の恐怖に友愛で打ち勝って死ぬんだって思ったら、それは希望じゃないかなと思いました。

薬として、永遠にソフィのそばにあり続けることにもなるし。。

覚えてることを書きなぐった自分メモだけど、初見の感想として、初めて見たときこんなこと考えてたんだっていう参考にします。