昔ばんぎゃるだった何かの日記

ばんぎゃるがいろいろ考えたりいろんなものを観たりするよ。

あゝ、荒野がすごくよかった話(めちゃくちゃネタバレしているしぐちゃぐちゃ)

全編通して、至る所に寺山修司とその作品への愛が溢れていて、その事にまず涙が出るような作品だった。

原作付きの映画ってもともとはものすごく苦手だったんだけど、本当に行ってよかった。

 

まず、舞台を2021年に設定していて、無理に60年代にしていないところが良かった。

近未来の日本にしては、今の東京にこんな暮らししてるやついねえだろ!!みたいな感じなんだけど、オリンピックを経て、貧富の差と高齢化が劇的に進んだ日本って感じなのかな。

奨学金を借りた人たちに、返済の代わりに介護職か自衛隊に入れば奨学金免除になるっていう法案が制定されそうな未来って感じかな。

原作の地震や、第二次世界大戦のところに、3.11とイラク戦争かぶせて来ていて、うまいと思った。

 

原作を初めて読んだのは10代の頃で、今回映画に行くにあたってもう一度読み返したんだけど、「どうやってこれを映像化するんだろう…」っていうのを読んで一番思ったのね。

登場人物全員、寺山修司!!って感じの作品だから(原作もめちゃくちゃ好きです)。

 

バリカン健二役のヤン・イクチュンさんが本当に良かった。

韓国人の俳優さんが、青森出身のドモリで赤面症の男をどうやって演じるんだろうって思って見てたんだけど、韓国と日本のハーフっていう設定に変えていて、すごく演技に真実味が増して良かった。

 

新宿新次役の菅田将暉さんもすごく良かった。

原作の新宿新次は、映画の新宿新次より暴力的で影のある男だと私は思っていて、でも、それはたぶん「寺山修司」が描いた新宿新次だからそうなったんだろうなって思っているんですけど、そこを、思いっきりカラっとした感じに菅田将暉の演技が塗り替えていて良かった。

菅田将暉の新宿新次だから、芳子は最後の試合を観ながら泣けたんだと思うし、菅田将暉のの新宿新次だから、最後の試合でバリカン健二に救いをあげる事ができたんだと思う。

 

後編の記憶が新しいから、後編の事ばっかりになってしまう…

 

オーシャンジムの最後、片目と宮木社長のやり取りに、寺山に対する監督の問いかけと答えを見た気がして、とても嬉しくなった。

「ふりむくなふりむくな、後ろには夢がない」と宮木が言う。

「ふりむけば後ろには夢ばっかりですよ」と片目が言う。

この、「ふりむくなふりむくな、後ろには夢がない」というあまりに有名な一節は、寺山修司の「さらばハイセイコー」という、ハイセイコー引退記念のレコードに寺山が寄稿した詩なんですけど、この「ふりむくなふりむくな、後ろには夢がない」の後に、「ハイセイコーがいなくなってもすべてのレースは終わるわけじゃない、人生という名の競馬場には、次のレースをまちかまえている百万頭の、名もないハイセイコーの群れが、朝焼けの中で追い切りをしている地響きが聞こえてくる」って続くんです。

これが、バリカンが死んでしまったあとにも、人々の人生が続いていく事に重なり、さらに映画が終わった後に、劇場に残された私たちの人生が続いていくことに重なっているんじゃないかと思って、さらにそれを受けて、でも私たちは後ろに残された夢も到底捨てることができないから「ふりむけば後ろには夢ばっかり」なんだなぁと思ったりして、あのシーンだけでものすごく考えてしまいました。

すごく良い掛け合いだったし、寺山の詩を受けての監督の気持ちが溢れている気がしてとても感動的でした。

 

そして、最後のシーン。

原作ではバリカンと新次が試合をした後、バリカンの意識が途絶えて、最後のページに「二木建夫」という名前の手書きの死亡診断書が載せられていて終幕を迎えます。

まず試合のシーン、原作では、ほとんど人生につながりのなかった登場人物たちが、試合会場のめいめいの席でめいめいの気持ちを抱いて、自分勝手に試合を観るという描写があります。

わたしは原作のこのシーンで、登場人物全員の孤独がものすごく研ぎ澄まされたものとして描かれていて、悲しすぎて滑稽で泣いてしまったんですけど、映画は少し違いました。

みんなが、ひとりひとりめいめいの気持ちを抱いて試合を観るんですけど、そこには、自分勝手かもしれないけれど思いがあって、孤独だけど他者を求めているように書き換えられていました。原作だと、私にはもう少し突き放したような印象に感じたんですけど。

それから、バリカンが原作より強い選手に描かれていたのも良かった。

映画で、バリカンが倒れた後に新次がバリカンを立たせて最後の一発を入れるシーン、原作で通じなかったバリカンの思いが、新次に通じた気がしてしまって、これは監督が、あまりに独りぼっちなバリカンに「救い」を渡してあげたシーンなんじゃないかなと思って、涙が止まらなかったです。

 

原作にのバリカンの描写の中に「人類の99%はドモリである」ので自分の周りには1%の人間がひしめいていて、どうにかしてその1%に愛されたいと望んでいたというのがあるんですけど、原作のバリカンは本当に誰からも愛されずに死んでいく描写がすごくて。

ラストで「二木建夫」という名前の死亡診断書が載っているっていうのが原作の終わり方なんですけど、それに二通りの説があって、一つが「寺山が単純に間違えた」というもの、もう一つが「死亡診断書ですら本名を間違われるほど、健二が孤独であり、誰からも注意を払われていないという演出」っていうものなんです。

私は、後者の説を推しているんですが(これについて論じている論文や資料があったら、教えてください)この部分の描写が映画はとても良かった。

健二のお父さんが試合を観に来ていて、事切れ(たように見える描写があ)るんですけど、それと健二もノックダウンする、最後死亡診断書のシーンに移り変わり、「二木健」まで医師が記入したところでシーンが移り変わるっていう演出。

本当によかった。移り変わった先で、新宿新次がベンチに座ってこちらをみつめている映像で終わるのも良かった。

原作には、バリカンが死んだあとの新次の描写はないので、そこが健二の孤独をより際立たせるんですけど、映画は新次のシーンが入る事で、バリカンの死(がもしあったとして)それに対して新次がきっと何か感情を抱いているっていう終わり方をするんです。

このワンシーンだけで、バリカンがものすごく報われたような気がする終わり方でした。

全体通して、登場人物が優しい気がして、そこが私的には良かったと思いました。

 

こんな感じ。まとまらない感想。

映画を観た人は原作を読んでほしいし、原作を読んだ人は映画を見てほしい。

 

他にも、いたるところに寺山の言葉がちりばめられていて、すごくよかった。

DVDになったらもう一度見ようと思います。