昔ばんぎゃるだった何かの日記

ばんぎゃるがいろいろ考えたりいろんなものを観たりするよ。

ヒプノシスマイクというコンテンツを好きになって、今考えてること

ヒプノシスマイクにハマっています。

最初はちょっと、えー…どうなのこれ……って思ってたんですけど、キャラクターのビジュアルを見て、楽曲を聴いて、転がるようにCDを買い、投票し、展示パネルを観に行き、グッズを買い、めちゃくちゃ楽しいです。

ただ、最近ツイッターで、私がこの作品に最初に触れた時「えー…どうなのこれ……」って思ってた部分について言及している方が徐々に見受けられるようになり、「やっぱそう思う人いるよな。わかるわかる。」と思っているところです。

ここで1つ断っておかないといけないな…と思うのは、これから書くことは、一切、ヒプノシスマイクというコンテンツを真っ直ぐに楽しんでる人たちに対しての非難ではないということです。

こういう事を書く時、大体、限界破裂トップギアでブチ切れてる文章の方が拡散されやすいので、コンテンツを真っ直ぐに楽しんでる人たちがめちゃくちゃびっくりして、責められているように感じてしまうという光景をよく見ます。

そうじゃないです。

(そもそも、トップギアでブチ切れたくなる事情がその書き手の方にもあるのでしょうし、そうして声を上げること自体めちゃくちゃ勇気あると思うので、そちらの立場も守りたい。)

今回私が話すのは、私がヒプノシスマイクに触れて感じた「私にとっての」ジェンダー感です。なので、多様性の時代には、こういう考えの人もいるんだと受け止めてくれたら一番嬉しいなと思います。

そして、私の文章でそれでもムカついたり、嫌な気持ちになったら「何故(どこが気に触って)自分は嫌な気持ちになったのか」を考えてくれたらもっと嬉しいなぁとも思います。

そのムカつきの根幹は、たぶんその人にとってのだいじなところだと思うので…

この文章に書かれてる事が正論だ!!とも全く思ってないです。

ジェンダー感っていうのは、性別はもちろん、住んでる地域や、家庭環境、パッと思いつくだけでも色んなものに影響されて個々人の中で醸成されます。

「自分にとってはどうなのか」を、主観だけじゃなく、社会的背景や歴史や、色んな事から考えて作り上げて、日々修正していくものだと思うので、「今の自分がどう感じるか」を、私は大切にしたいと思っています。

「今の自分がどう感じていて、その感じている事は誰かの尊厳を踏みにじっていないか」

ここを大切にしたいと、思っています。

まぁ、そんなに沢山の人に届くとも思ってないので、私のTLのみんなたちがそうしてくれたら良いなぁくらいの感じです。

ごめん、説教くさいね……

では話を戻します。

ホームページを観て、イケブクロディビジョンvsヨコハマディビジョン(順番に他意はないよ)のドラマパートを聴いて、ウッ……と思ってしまう箇所が私はありました。

今はホームページのストーリー紹介の箇所から、その部分がゴッソリ削除されているのですが、「女性が政権を持つようになって、中王区という区画に住むようになり、男性は中王区以外のディビジョンに分かれて住むようになった」的な設定が最初はかかれていました。

(アニメイトのパネル展示で見られます。)

それぞれのディビジョンは、中央政権に反旗を翻しつつ、ラップによるディビジョンバトルを繰り広げていく。という感じの内容です。

最初に見たとき、このご時世に、今の日本語ヒップホップの流れを汲んで、この設定でやるの勇気あるな…と思いました。

ジェンダーに関する価値観の多様性を認め合っていこうというこのご時世に……って。

劇中でも女たちはなかなかにディスられます。これ、現実でこういう扱い(「女だから」とか「女のくせに」とか「女なんだから」と言われて虐げられたことがある)を受けている場合めちゃくちゃキツイな……と私は思いました。

且つ、今のジェンダー感を一部だけひっくり返した構成も、キツイな…と思いました。

他の方のブログ記事でも言及がありましたが、政権と税率(男は女の10倍らしい)と中王区には女しか住めなくて男は入るのに許可証がいる。という設定以外、キャラクターには男の医師もホストも会社員も小説家もデザイナーも警官もいますし、看護師は女性でした。

ホストクラブでは女は「子猫ちゃん」だし、モテまくるキャラクターにとっての女は「おねーさん」です。

作中で、レストランの女性従業員に失礼な態度を取っても追い出されるような事はないし、中王区の中の女性たちをナンパする事だって可能です。

こういった点では、男性に対しての格差社会を感じることはほぼありません。

「中王区に住む女たちだけが特別」というような設定が後から出てくる予定だったのかもしれませんが、それなら女全体を「クソ女ども」って罵るのは辻褄が合いません。

税率10倍ではないにせよ、現実で、女性の収入は男性の7割で、まだまだ世の中の企業には暗黙の了解で女性にはつくことができない仕事があります。現実の世の中に出た時に、自分がして来た嫌な経験が、キャラクターを通してフラッシュバックして、かつそれを思い出してる最中に更にキャラクターからディスられる…キツイ……キツイっすよ…

これも他の方のブログ記事で言及がありましたが、『オトメイトレーベルは女性向けなのもあって女性キャラクターがほとんど出てこない。』んですね。(私は勉強不足でこの辺の事をほとんど知らなかったのですが)

たしかに、「それを正当化する手法」なのだとしたら、なるほど…と思いましたが、ぶっちゃけ何も知らずに最初聞いた時、ディストピアものにするにしては中途半端に思えるし、なんでこんな設定にしたのか全然わからなくてとてもびっくりしましたし、ショックでした。

 

現代社会の激しいダイバーシティ化の煽りを受けてか、日本のヒップホップ界もジェンダーについての捉え方が少しずつ変化してきています。

フリースタイルダンジョンの椿さんとか、リリック自体は自分のスタイルを貫いたけど、椿さんの挑戦を受けた呂布カルマさんとか、そのバトルに対してのzeebraさんのコメントとか、いとうせいこうさんの考え方とか。

あとは、私は最近、NEWS RAP JAPANという番組を楽しみに観てるのですが、TK da 黒ぶちさんの考え方とか、新しい風って感じがして面白いです。

 

ヒプノシスマイクというコンテンツが、今後どういう展開を辿っていくのかは、一消費者のわたしには分かりませんが、私も、ヒプノシスマイクが2018年の日本で展開しているコンテンツとして、ジェンダーのしがらみを打ち破るものであってほしいと思います。

久しぶりに心の底からハマってる2次元コンテンツなので、長々と書いてしまいました。

最後に、色々言ったけど、ヒプノシスマイクってそれを差し引いても私はすごく良いと思うからもし良かったら聴いてほしい……

声優さんが、一作目より二作目、二作目より三作目ってどんどんラップが上手くなっていくところに、プロのスキルと努力を感じます。

大好きで面白いと思うから、考えちゃうんだよな…っていう記事でした。

おしまい。

 

 

「目安」があるということ

とても好きで、一度好きが飽和して破裂してしまって、それからも好きがなくならずに、ずっと往生際悪く年に数回見に行っていたバンドの、鹿児島公演に遠征してきた。

このバンドのライブで遠征をするのは2年ぶり、鹿児島に行くのは人生初めて。結論、めちゃくちゃ楽しかった。

私は、このバンドのギターの人が、どうかしてるくらいに好きだったんだけど、改めて、やっぱかっこいいな……って思った。かっこいいよ。

 

そして、私の人生に於いて「この人がこうしているから私も頑張ろう」っていう…こういうの、なんていうんだろう…目標とは違うなんか「目安」みたいな人がいるっていうのは、めちゃくちゃ支えになるんだなと思った。

たぶん、身近すぎると比べてしまったり、変に意識してしまったりあるのかもしれないんだけど、バンドマンだから遠いし、勝手に感情移入してるので近くもあって、めちゃくちゃしっくりくる。

この人がこの人でいる限り、私もこの人のファンとしての自分を許せる自分になろうって改めて考えたりしました。

 

七夕はZepp  Tokyoにいこう!!

http://sp.eplus.jp/sys/main.jsp?prm=U=14:P1=0402:P2=036356:P5=0001:P6=127

 

最近のこと(ほぼ愚痴)

就職してから一度も更新してなかった。

そう、就職しました。もうすぐ半年たちます。わーい。

最近は、特に追いかける人もなくぼんやりとした日々を過ごしたり、習い事に行ったり、かといって勉強するわけじゃなかったり、割とぼーっと過ごしてる感がある。

完全週休二日制かつ、仕事がある日もほぼ定時で帰っているので、すごい時間あるけど、気疲れしてて家に帰ると何をする気力もないみたいな感じ。

やばくない???さまぁ~ず×さまぁ~ずをひたすら見てる。

足を運ぶ系のエンタメを消費しなくなると、まじで引きこもりになるね。ほんとに。

試験が8月にあるので勉強しなきゃいけないんだけど、本当にやる気になりません。

っていうか、もともと自分が取りたかった資格なのに勉強するのはめんどくさいからやばいですよね。

最近考えてることを愚痴ります。

今の職場、おじさんがめちゃくちゃ多いんだけど、私おじさんと人間関係作るの割と得意だから(うちの会社のおじさんみんな優しいし)全然苦じゃないのね。まぁ、気は遣うし(目上の人だから当たり前)セクハラやばない?みたいな人はいるけど、その人も酒を飲まなきゃ優しいので、まぁこんなもんですよねーみたいな感じで日々生きてるんですね。

がしかし、それに対して若手の人たちが「◎◎さん(私)気ぃ使ってますよねー大丈夫ですかー??」みたいな事をことある事に聞いてくるのにモヤモヤしている。

初めは本当に心配して言ってくれてるんだなーって感謝して「大丈夫ですよー」って返してたんだけど、だんだん「◎◎さんが××さんと話してるの聞こえるけど、めっちゃ気ぃ使ってるなって思うんですよー」とか言われるようになって、あ、これ、私の口から××さんの悪口引き出そうとしてんな?って最近は思うようになってしまった。

 今回の場合、本当はそんなことないのかもしれないけど、今までの経験上そういう事を言う人は、その悪口に私がノっていかないと、そのうち私の事を「上にコビてる」とか「気に入られようとしてる」とか言い出すので、今から距離感気を付けておこう!と最近自戒しているところです。

心配という革を着て、その人の都合の良い方に誘導しようとする人と、今までの人生でめちゃくちゃ出会ってきたので、警戒が解けません。

こんなことは絶対に職場では言えないので、ここで愚痴りました。

たまに、日記的にここを使おうかなーついったーとの差別化がよくわからないけど。

勉強する!!!

 

 

 

あゝ、荒野がすごくよかった話(めちゃくちゃネタバレしているしぐちゃぐちゃ)

全編通して、至る所に寺山修司とその作品への愛が溢れていて、その事にまず涙が出るような作品だった。

原作付きの映画ってもともとはものすごく苦手だったんだけど、本当に行ってよかった。

 

まず、舞台を2021年に設定していて、無理に60年代にしていないところが良かった。

近未来の日本にしては、今の東京にこんな暮らししてるやついねえだろ!!みたいな感じなんだけど、オリンピックを経て、貧富の差と高齢化が劇的に進んだ日本って感じなのかな。

奨学金を借りた人たちに、返済の代わりに介護職か自衛隊に入れば奨学金免除になるっていう法案が制定されそうな未来って感じかな。

原作の地震や、第二次世界大戦のところに、3.11とイラク戦争かぶせて来ていて、うまいと思った。

 

原作を初めて読んだのは10代の頃で、今回映画に行くにあたってもう一度読み返したんだけど、「どうやってこれを映像化するんだろう…」っていうのを読んで一番思ったのね。

登場人物全員、寺山修司!!って感じの作品だから(原作もめちゃくちゃ好きです)。

 

バリカン健二役のヤン・イクチュンさんが本当に良かった。

韓国人の俳優さんが、青森出身のドモリで赤面症の男をどうやって演じるんだろうって思って見てたんだけど、韓国と日本のハーフっていう設定に変えていて、すごく演技に真実味が増して良かった。

 

新宿新次役の菅田将暉さんもすごく良かった。

原作の新宿新次は、映画の新宿新次より暴力的で影のある男だと私は思っていて、でも、それはたぶん「寺山修司」が描いた新宿新次だからそうなったんだろうなって思っているんですけど、そこを、思いっきりカラっとした感じに菅田将暉の演技が塗り替えていて良かった。

菅田将暉の新宿新次だから、芳子は最後の試合を観ながら泣けたんだと思うし、菅田将暉のの新宿新次だから、最後の試合でバリカン健二に救いをあげる事ができたんだと思う。

 

後編の記憶が新しいから、後編の事ばっかりになってしまう…

 

オーシャンジムの最後、片目と宮木社長のやり取りに、寺山に対する監督の問いかけと答えを見た気がして、とても嬉しくなった。

「ふりむくなふりむくな、後ろには夢がない」と宮木が言う。

「ふりむけば後ろには夢ばっかりですよ」と片目が言う。

この、「ふりむくなふりむくな、後ろには夢がない」というあまりに有名な一節は、寺山修司の「さらばハイセイコー」という、ハイセイコー引退記念のレコードに寺山が寄稿した詩なんですけど、この「ふりむくなふりむくな、後ろには夢がない」の後に、「ハイセイコーがいなくなってもすべてのレースは終わるわけじゃない、人生という名の競馬場には、次のレースをまちかまえている百万頭の、名もないハイセイコーの群れが、朝焼けの中で追い切りをしている地響きが聞こえてくる」って続くんです。

これが、バリカンが死んでしまったあとにも、人々の人生が続いていく事に重なり、さらに映画が終わった後に、劇場に残された私たちの人生が続いていくことに重なっているんじゃないかと思って、さらにそれを受けて、でも私たちは後ろに残された夢も到底捨てることができないから「ふりむけば後ろには夢ばっかり」なんだなぁと思ったりして、あのシーンだけでものすごく考えてしまいました。

すごく良い掛け合いだったし、寺山の詩を受けての監督の気持ちが溢れている気がしてとても感動的でした。

 

そして、最後のシーン。

原作ではバリカンと新次が試合をした後、バリカンの意識が途絶えて、最後のページに「二木建夫」という名前の手書きの死亡診断書が載せられていて終幕を迎えます。

まず試合のシーン、原作では、ほとんど人生につながりのなかった登場人物たちが、試合会場のめいめいの席でめいめいの気持ちを抱いて、自分勝手に試合を観るという描写があります。

わたしは原作のこのシーンで、登場人物全員の孤独がものすごく研ぎ澄まされたものとして描かれていて、悲しすぎて滑稽で泣いてしまったんですけど、映画は少し違いました。

みんなが、ひとりひとりめいめいの気持ちを抱いて試合を観るんですけど、そこには、自分勝手かもしれないけれど思いがあって、孤独だけど他者を求めているように書き換えられていました。原作だと、私にはもう少し突き放したような印象に感じたんですけど。

それから、バリカンが原作より強い選手に描かれていたのも良かった。

映画で、バリカンが倒れた後に新次がバリカンを立たせて最後の一発を入れるシーン、原作で通じなかったバリカンの思いが、新次に通じた気がしてしまって、これは監督が、あまりに独りぼっちなバリカンに「救い」を渡してあげたシーンなんじゃないかなと思って、涙が止まらなかったです。

 

原作にのバリカンの描写の中に「人類の99%はドモリである」ので自分の周りには1%の人間がひしめいていて、どうにかしてその1%に愛されたいと望んでいたというのがあるんですけど、原作のバリカンは本当に誰からも愛されずに死んでいく描写がすごくて。

ラストで「二木建夫」という名前の死亡診断書が載っているっていうのが原作の終わり方なんですけど、それに二通りの説があって、一つが「寺山が単純に間違えた」というもの、もう一つが「死亡診断書ですら本名を間違われるほど、健二が孤独であり、誰からも注意を払われていないという演出」っていうものなんです。

私は、後者の説を推しているんですが(これについて論じている論文や資料があったら、教えてください)この部分の描写が映画はとても良かった。

健二のお父さんが試合を観に来ていて、事切れ(たように見える描写があ)るんですけど、それと健二もノックダウンする、最後死亡診断書のシーンに移り変わり、「二木健」まで医師が記入したところでシーンが移り変わるっていう演出。

本当によかった。移り変わった先で、新宿新次がベンチに座ってこちらをみつめている映像で終わるのも良かった。

原作には、バリカンが死んだあとの新次の描写はないので、そこが健二の孤独をより際立たせるんですけど、映画は新次のシーンが入る事で、バリカンの死(がもしあったとして)それに対して新次がきっと何か感情を抱いているっていう終わり方をするんです。

このワンシーンだけで、バリカンがものすごく報われたような気がする終わり方でした。

全体通して、登場人物が優しい気がして、そこが私的には良かったと思いました。

 

こんな感じ。まとまらない感想。

映画を観た人は原作を読んでほしいし、原作を読んだ人は映画を見てほしい。

 

他にも、いたるところに寺山の言葉がちりばめられていて、すごくよかった。

DVDになったらもう一度見ようと思います。

無職になったよ!~好きなものの愛し方が似ていると楽だよねって話~

9月1日付で無職になりましたー。わーい。

実質7月8月休職してたので、全然無職だったようなものなんですけど、どこの学校にも会社組織にも所属しないっていうのが、1歳半以来(1歳半~親子学級に入って以来、どこかに所属し通う生活をしていた)なので、実質赤ちゃんじゃん…っていう新鮮な気持ちで日々を過ごしています。

実質赤ちゃんなので、将来の事に不安になったりしますが、もうだいぶ元気なんですけど、まぁもうしばらくゆっくりしようかな…と今は思っています。(2秒後とかに激しい「働かなくちゃ」っていう気持ちに襲われて動悸がしたりする…赤ちゃんだからな。)

 

で、無職ってまじで暇ですね。やることがない。

最近は、近所にいるポケモンを捕まえたり(初めてルアーモジュールを使ってみたけど、ウパーしか捕まらなかった。ウパーがめっちゃ採れた。)、仮面ライダーオーズを観たり、りょーすけみうらを褒めたたえたり、パズドラをしたりしています。

あとハイアンドローにも行きました。あと、SuGの活休ライブもいった。

こうやって書くといろいろやってるな。

 

ブログになんの事書こうかなーって思ったんですけど、最近考えている事を今回は取り留めもなく。

 

最近、久しぶりに会うお友達とゴハンを食べて、激しいばんぎゃるってやっぱ最高だし、金と愛と力は出し惜しんじゃいけねえって思ったりしました。

 

私、11歳でGLAYを好きになり、12歳で初めてライブに行ったので、ライブに初めて行った年を「ばんぎゃる元年」と思えば来年でばんぎゃる20周年なんですよ。めでたい。

長いわりに、別に面白いことは何もないばんぎゃる人生だったんですけど、その中でもばんぎゃるで身に着いたな…って思う事が結構あったりするんですね。

 

私はばんぎゃるで居て、「好きなものが同じだからってそれだけで仲良くなれるわけじゃない」とか、「『好きなものが同じ』ことより、『好きなものの愛し方が似ている』事の方が重要」って言うことを、体験として習得していった感があって。

ぶっちゃけ、私がばんぎゃるになってから友達だと思っている人たち、一時期通ってたバンドがかぶってたりはするけど、本命バンドがかぶってる人たぶん一人二人しかいないんですよね。

麺被りが無理とかでは全然ないんですけど(現に友達だと思ってる人達の推しと私の本命麺はほとんど被っている)、愛し方に共感できる人とは、一緒にいて楽だったり面白かったりするなって思います。

まぁ、私が一方的に友達だと思ってるだけなんで、そう思ってる人に嫌われてたらまじでごめん。って感じなんですけど。

私が好きだからそれでいいんですよ。

 

人間関係において、「好きなものの愛し方が似ている」っていうのは、私にとってすごく重要っていう話しでした。

 

パズドラ、なんか卵を抱いた猫みたいなやつがめっちゃいるんですけど、これなんの時に使うんですかね。まじで。

SEX-ANDROID『高速バス』とばんぎゃるの遠征する心(わたし編)

私は、遠征する事が好きです。

わたしのツイッターを知ってる人達(99.9%ばんぎゃる)には説明するまでもないと思うけど、ばんぎゃるの言う遠征っていうのは、好きなバンドのライブが自分の住んでる地域以外で開催されるときに、あらゆる手段を用いてそこにかけつけ、ライブを見ることである。

 

ちょっと話ずれるけど、ライブに参加することを「参戦」っていうの、何と戦ってるの?ってずっと思ってた。ただ最近は、この「あらゆる手段を用いる」ための日常との戦いや、ライブハウスの中で、与えられた整理番号に基づいて、いかに合法的に自分が最大限楽しめる場所を確保するかというフロアでの戦いがあったりするから、なるほど「参戦」だなと納得しています。

 

冒頭に書いた通り、私は遠征が好きなのだが、遠征の何が良いかをちょっと考えてみましょう。

  1. 遠くに行けるのでワクワクする
  2. 地方の名物が食べられる
  3. 駅弁がうまい
  4. 観光ができる(履歴書の趣味欄には『旅行』『音楽鑑賞』と書きます)
  5. そこでしか見られないライブがある(これは遠征に限らない)
  6. その街に好きなバンドが来ているというだけでなんか楽しくなる
  7. 先週東京で会った人に今日は大阪で会うみたいな邂逅がある(その人は九州に住んでたりする)

ざっと考えただけでも、遠征にはこれだけの楽しい事があります。書いてたら遠征したくなってきた。

この7つの中で、旅行じゃなくて遠征でしかできない事って何かな?って考えるとやっぱり⑤と⑥だと思うんですよね。

特に⑤は、大好きなバンドの最高の一瞬はできるだけ網膜に刻みつけたい系ばんぎゃるなので、ツアーがあるとなったら一回でも多く見たいというのが私のばんぎゃる心。

 

この気持ちを、びっくりするほど的確に、ものすごくロマンチックに歌い上げている名曲があるんです。

まあ、私が言わなくても名曲なので、全然みんな知ってると思うんだけど、

SEX-ANDROIDの『高速バス』という曲が、それです。

(めちゃくちゃYouTube貼りたいんだけど、違法アップロードのやつしかあがってないから、各々つべで曲名をローマ字にしたりなんたりして検索してくれ。)

CDはここから買える↓まじで高速バス以外にも名曲ぞろいだから絶対に聴いたほうがいい。 

SEX-ANDROID 20th ANNIVERSARY BEST 医者ROCK NEVER DIE

SEX-ANDROID 20th ANNIVERSARY BEST 医者ROCK NEVER DIE

 

何がすごいって、板の上の人が、ここまで的確にばんぎゃるの本命バンドとバンドマンに対する恋心を歌い上げている、そこがすごい。

バンドマンの書く「バンギャに纏わる歌」はだいたいピントがずれてて、「いやいやそんなバンギャルいないしいても少数の頭おかしい奴だけww」みたいな、(笑)がつくようなものがほとんどだけど(共感するより、その(笑)の部分を楽しむものだと思っている)、セクアンの高速バスは違う。

 

何もかも嫌になってた夜

励ましてくれたあのメロディ

逢いたい…不思議なザワメキが…ね

あなたに狂わせる魔法をかけるの

 

『高速バス』の歌詞の一部なんだけど、これ、全てのばんぎゃるが共感できるのでは!?って思ってるし、雄大さん(ボーカルの人で歌詞も書いてる)は、私の事知ってるの!?ってなるばんぎゃるがめちゃくちゃいると思う。私は思った。

 

部屋で一人で好きなバンドの曲を聴いたり、本命のバンドマンが載ってる雑誌を見たりして、「はぁ…良い曲…世の中嫌な事ばっかりだけど頑張ろう…」って思ったりとか、「はぁ…○○かわいい…次のライブまで頑張ろう…」って思ったりする我々のことを、すごく「わかってくれてる」って思ってしまう歌詞じゃないですか!?

 

この歌詞の中の「あなた」は本命のバンドマン個人でもいいし、バンド自体でもいいと思う。

英語の「you」ですよね。

 

わたし今高速バスで

あなたに逢いにゆくとこ

ちゃんと寝ておかなきゃ

元気であなたに逢えない

 

ここ!!そうです。ばんぎゃるはちゃんと寝ておかないと!!

ヘドバンも逆ダイも万全の体調でやってこそ!

 

わたし今高速バスで

あなたに逢いにゆくとこ

起きたらちゃんとお化粧して

綺麗であなたに逢いたい

 

ここもすごくないですか?

「起きたらちゃんとお化粧して綺麗であなたに逢いたい」バンドマンにどう思われるかとかじゃなくて、自分が「綺麗であなたに逢いたい」んだっていう、ばんぎゃるの片思い感がめちゃくちゃあふれてて、ここ大好きなんですよ。

 

その次からもすごい。

 

わたし今高速バスで

あなたに逢いにゆきます

夢の中のあなたは

光の渦に包まれて

 

ステージの幕が上がり

2度とない今日を無邪気に

ブチカマシテください

そのために行きます

 

ここのフレーズが、本当に好きすぎてどうにかなってしまいそうなんですけど、

まず「夢の中のあなた」ってとこ。

ここまでしっかりばんぎゃるの心理を描いてきてくれて、ここで「夢の中のあなた」っていうフレーズでわたしたちばんぎゃるが見ている「あなた」は夢なんだって明言してくれる。

 

私、ここには二つの意味があると思っているんですね。

ばんぎゃるって、バンドの夢を自分の夢にしてしまうところが往々にしてあると思っているんです。少なくともわたしはそういうところがあった。

大きい会場でやってほしいとか、永遠にバンドとして続いてほしいとか。そういうバンドの夢を自分の夢みたいに置き換えて、そこで力をもらっているみたいなところが、私にはあった。

この「夢の中のあなた」って、そういう「追っている夢」の真ん中にいるあなたっていうことじゃないかなっていうのが一つ。

この高速バス、ライブで演奏されるときにお客さんがやるフリつけがあって、ステージに向かってお客さんが何かを投げるようなフリをするんですよ。

その時に、雄大さんが「みんなの夢を投げて!!」って言って、それを一つ一つキャッチして食べるような仕草をするんですね。

それが、ばんぎゃるの託した夢をセクアンが食べてくれたみたいで、「託していいよ、任せていいよ」っていうことなのかなって勝手に思っていました。

もう一つがバンドやバンドマンって、幻とか夢みたいなもので、ライブって本当に夢みたいなものなんだよっていう、ある意味でのやさしい線引きみたいな意味合いもあるのかなと思ったりもします。

「夢の中のあなたは光の渦に包まれてステージの幕が上がり」

ここまでの歌詞を読んでるだけで、ステージの上の本命のバンドマンが、キラッキラのライトの下で世界一かっこよく振舞ってる様が、脳裡に浮かんできませんか!?

私はきます。

 

「二度とない今日を無邪気にブチカマシテくださいそのためにゆきます」

 

私たちが、バンドのライブを「二度とない今日」だと思って遠征してるってことを、板の上の人が知っててくれてる。

そして、その二度とない今日に最高に可愛くかっこよくブチカマシテくれる様を見るために、我々が遠征しているということを、知っててくれてる。

最初にこの曲を聴いたとき、本当に衝撃でした。とてもうれしかったし、とても報われた気持ちになった。

 

「そういう気持ち」で私が遠征している事を、知っててくれる板の上の人がいるんだって、ものすごくうれしかったのを覚えています。

 

わたし今高速バスで

あなたに逢いにゆきます

わたしのこと知らぬあなた

あなたの居る町へ

 

バンドマンは基本、ばんぎゃるの事なんか知らないじゃないですか。

顔は知ってても、ふだん何をしているのかは知らない、顔もしらなかったり、顔は知ってるけど声は知らなかったり、知られてなくても、それでも行くんだっていう、ここもばんぎゃるの片思い感が出ていてすごく好き。

 

私今高速バスで

あなたに逢いにゆきます

憂鬱さえ笑い飛ばして

そのために生きます

 

「憂鬱さえ笑い飛ばしてそのために生きます」ですよ。これをバンドが曲にしてくれるってすごくないですか?

「そのために生きる」ことを肯定してくれている!!私はそう思いました。

「俺たちはみんなの夢にはなれないから…みんなはみんなの日常を生きて…」みたいなしゃらくせえ事を一切言わない。(特にモデルはいません。個人の感想です。)

 

ばんぎゃるの気持ちを肯定して、そのうえで「でも片思いだし、こっちは顔もしらないよ」ってちゃんとやさしく線を引いてくれる。

この絶妙な加減が、めちゃくちゃ好きなんですよね。

 

残念ながらSEX-ANDROIDは今年の7/19をもって、無期限の活動休止になってしまいましたが、名曲は色あせることなく、永遠にばんぎゃるのっていうか私の心の中で燦然と輝き続けます。

 

遠征にかこつけて、セクアンの「高速バス」がどれだけ好きかっていう話がしたかった回でした。

遠征したいですねー。

 

 

おわり。

ありがとう、グランギニョル。

(TRUMPシリーズ全作品について、めちゃくちゃネタバレします。)

 

本命バンドのツアーが終わったときの気持ちに、とてもよく似た「寂しい」を感じながらこの文章を打っている。

この舞台を観られた事への感謝とか、そもそも、めいめいと東啓介さんが気になって劇場に足を運んだら、三浦涼介さんというすごい人がそこにいた事とか、3回観た公演全部友達が一緒で嬉しかった事とか、大阪楽しかった事とか、ぐちゃぐちゃになって、今パソコンに向かっている。

 

大好きになってしまったものの、大好きなところを残しておきたいので、書きます。

 

前回の感想でも、「グランギニョルは分かりやすく愛のお話」って書いたけど、やっぱりそうだと思った。

観れば観るほどフリーダ様が大好きになっていく。

スーがフリーダ様に「フリーダ様は幸せですか?」って問うシーン、「幸せであろうと努力しているわ」って応えるところ、本当に大好き。

フリーダ様は、誰しもが運命に縛られている中で、その中で最大限に幸福であろうと努力してるように見えた。運命を悲観するんじゃなくて、その中で精いっぱい、デリコ家の妻として、ラファエロの母として、一人の女性として、生きようとする。

フリーダ様が掲げていた「共存主義」は、 運命に対する反逆だったんじゃないかな。

「夫婦が同じ思想を持っていなくてはならないわけではありません」って、フリーダ様がジャック・ブレアに言っていたけど、それは「ダリの妻」ではなくて「自分」としてフリーダ様が生きていた証なのかなって思う。

赤ん坊のウルに、マルコが「この世に生まれてきた苦しみから泣いている」っていうところ、シェイクスピアリア王を原典にしてるってこないだ書いたけど、同じリア王にこういうセリフがある。

「やっとわかったぞ。これからは苦難に耐え抜いていこう、苦難の方から降参降参と悲鳴をあげて消えてしまうまで。」

(I do remember now. Henceforth I’ll bear Affliction till it do cry out itself.)(研究社/リア王4.6/大場建治)

フリーダ様も、こんな気持ちだったんじゃないかな…。

代えがたい運命、「呪い」の中にあって、それでも家族と、愛する人と、自分の矜持を守ろうとしたんじゃないかな。

 

フリーダ様の最期、ダリに対して「私もあなたを愛しています」って言うのね。

ダリは劇中、一度もフリーダ様に愛してるって言わないの。

それでも、ちゃんとダリのフリーダ様を「愛している」っていう気持ちが、ラファエロのことも愛しているっていう気持ちが伝わっていて、ダリがスーの赤ちゃんの事も「愛してあげられる人」だってフリーダ様は分かっていたから、事切れる最期にああいうセリフを言ったのかなって思う。

ダリの愛を、きちんと受け取ってくれる貴重な人だったと思うんだ。フリーダ様。

だって、TRUMPで、二人の息子に父の愛あんまり伝わってないように見えちゃって悲しかったから、フリーダ様が生きていてくれたらいいのにって、すごく思った。

 

ダリが最後、ウルを噛んで「負けるな」って呪いをかける。

あれは、ウルに対してもだけど、ダリ本人に対しても、言い聞かせるじゃないけど、そういう気持ちがあったのかなって、大阪で見たときに思った。

グランギニョルで妻を失い、TRUMPで二人の息子を失う。そういう意味で、ダリ=デリコを主演とした残酷劇は、ある意味で完成してしまうんだなって思ったりもした。

ただ、ダリが生きている限り、それは終わりじゃないような気がしたりもする。

 

「負けるな」の呪いは、私たち観客一人ひとりに対してもかけられたものだと思う。

グランギニョルの構成で、すごく好きだなと思うところ、劇中の耽美な残酷劇に流れる「呪いの中で生きていく」っていうモチーフが、客席の私たちの「生き方」にも投げかけられるところなんだよね。

私たち一人ひとりもやっぱり、日々呪いの中で生きていて、その中でいかに幸せに生きようとするかっていうのを、問いかけられていると思った。

 

好きなところを飛び飛びで書いてるから、全然まとまりがないんだけど、めいめいのキキもすごく良かった。

キキのシーンで私が一番好きなのは、オズと別れるところ。

BGMが、LILIUMの「もう泣かないと決めた」なんですよね。マリーゴールドがLILIUMで歌っていた歌。

その前の繭期3人組で話すところ、キキが「私は泣かないって決めたの」って言う。でも、そのあとオズと別れるときに泣きながら上手にはけていくんですよね。

キキはきっと、これから先泣かないんだろうな…オズと別れる涙が最後の涙なんだろうな…と思いながら見ていました。

上手にはけるっていうのも、意味があるのかなって思っていて、富野由悠季の「映像の原則」で、上手にはポジティブな意味合いがあるっていうのを読んで、このBGMとキキの涙は、キキの希望への決意なのかなって思ったりしました。

この「映像の原則」の上手下手理論が、グランギニョルでどれだけ適応されるものなのかはわからないので、考えすぎなのかもしれないけど。。

キキが最後に姿をくらますときは下手に消えるので、そこに意味があるとしたら悲しいなとも思いました。

この辺は、DVDを観てまた考えたいです。

 

もうとにかく、私がどれだけフリーダ様が好きで、フリーダ様に生きてほしいと思ったかが伝わったらうれしい。

 

生まれて初めて、人がよく死んでしまう作品において、二次創作で転生系現代パロディとか、全員生存エンドパロディとかが流行る意味が分かってしまっている。

そのくらい、フリーダ様がいなくなってしまったのが悲しい。

 

あ、あと、三浦涼介さんのファンクラブに入りました。

 

グランギニョル、DVDが最寄りのアニメイトに届くのが楽しみです。